【 この世界の片隅で 】

原作はこうの史代氏による漫画で、連載が評判を呼び2016年にアニメ映画化され、大掛かりな宣伝もないのにジワジワと観客を増やし、その後TVドラマ化もされ、2019年に大幅にシーンを追加された完全版アニメ映画が完成して、今回のミュージカル化へと繋がった。

脚本・演出上田一豪、音楽アンジェラ・アキで構想・立案から4年、クリエイター達とキャスト達が原作に誠実に向き合い、一つ一つを丁寧に創り上げた作品で、真っ直ぐに響く音楽と時代を見つめる優しい視線の中、一人の少女すずが辿った人生の、その慎ましい日常を通して「生きてゆくこと」を肯定する作品になっている。

大きなテーマは戦争であり、その底には反戦思想ももちろんあるのだろうが、物語はことさらに戦争の悲惨さを描かない。戦時下に暮らす名もなき普通の人々が、日々の暮らしにささやかな幸せを見出してつつましく生きるその姿を描いて、それゆえに一層強く美しく悲しい人々の生き様が、胸に迫る感動的な作品になっている。

舞台は結構傾斜のある八百屋舞台で、全体がわら半紙を敷いたような質感で真ん中に盆があり、この盆がまわると高低差が出て傾いて坂道にもなり、前面の開いたところから子供やら座敷童が出てきたりする。

舞台の左右に階段があり、本来ならオーケストラピットがある位置に張り出し舞台があり、そこの脇から下へ降りる階段もあり役者が出入りする。

つまり左右の階段によって2階建てになり、奈落へと降りる階段で3階分の空間を作り出していて、より重層的な芝居が作れることになる。

舞台奥のホリゾントも、呉の街並みだったり軍港だったり様々な物を映すが、全体がすずの帳面の形になっていて、絵の得意なすずが書いている通りに鉛筆で絵が描かれていくのも面白い趣向だった。

広島。江波で海苔の養殖業を営む父母と兄と年子の妹に囲まれ、祖母が暮らす草津と行き来しながら穏やかに育ったすずは、昭和19年2月に18歳で江波から30キロ離れた呉の高台に位置する北条家に嫁ぐ。

是非にと乞われて断る理由もなく、言われるがままに嫁いできた北条家では、もの静かな夫周作と、優しい両親と、やがて亡き夫の実家と離縁した義姉の径子とその娘晴美も加わり、新しい生活が始まった。

戦時下の様々な制約の中、家族や隣組の人達と助け合い工夫しながら毎日を過ごすすず。そんな中で周作とのつかの間のデート、二葉館(娼館)の白木りんとの出会い、水兵になった幼なじみの水原との再会。そして20年3月の呉大空襲。8月6日の広島への原爆投下。そして終戦。

舞台は何もない空間にすずが一人で現れ、この作品のテーマ曲とも言える「この世界のあちこちに」を歌い出し、やがてパラパラと出演者たちが現れ、最後は全員での大合唱となって暗転。

次に照明が入ると、北条家の一室。大切なものを失くしたすずが包帯で巻かれて伏せっている。茫然としているすずが歌う「歪んだ世界」が心に刺さる。

そこからまたシーンが飛んで、幼い頃広島の橋の上でバケモノ(人さらい)にさらわれて、バケモノが背負っている籠の中で同じくさらわれた周作と出会う。

そもそもこの出会いのシーンはまさしくファンタジーで、映画のバケモノはリアルに熊のようだったし、夜になると寝てしまうという習性があり、すずが書いた夜の風景を望遠鏡で見せられるとそのまま寝込んでしまうというお粗末な奴である。(笑)すずは一人で広島の街中まで海苔を届けるお手伝いが出来る年齢であり、後の結婚式のシーンで「8年探した」という周作の歌詞があるので、ほぼ間違いなくすずは9~10歳。周作は4歳年上だから13~14歳。ホイホイとバケモノに捕まって背中の籠に放り込められても逃げられないはずがない。

いずれにしろこの出会いで、周作はすずの靴下に書いてあった「浦野すず」の名前と、顎のホクロを覚えていて、8年かけて探し当てたという訳だ。

シーンはここから一気に縁談や祝言のシーンになり、すずのおっとりとした、いや、ちょっとドジでぼーっとした人となりが明らかになり、新しい環境での精一杯の奮闘と、優しい周作との間に芽生えた愛情を確認してゆく。

ここまで書いてお分かり頂けたと思うのだが、1幕はとにかく時空を行ったり来たりで頭がついていかない。すずも大人になったり子供になったり、腕の包帯もあったりなかったり。大人のすずと子どものすずが同じ舞台上にいて一緒に歌ったりして、舞台がいつの時代なのか、ん?と思う時もあった。

映画もTVドラマも観ていた私でさえそうなのだから、全くこの物語自体が初見の人は何がなんだかわからなかったかも知れない。

道に迷ったのを助けてくれた二葉館の白木リンと友達になるけれど、そのリンは実はすずが昔祖母の家で出会った座敷わらしで、浮浪児だったリンが、その時スイカを分けてくれてわざと着物を忘れていってくれた優しい少女をずっと大切な思い出にしていたことも、この舞台だとちょっとわかりにくい。

リンとすずは少なからずの因縁で結ばれていた訳だが、そのリンと周作の関係がちょっとした事から判明して、慄然とするすず。

ここで1幕が終了するが、2幕からはほぼ時間軸通りに進み、いよいよドラマが立ち上がってくる。

ここで役者さんたちの感想を。(Wキャストで観れなかった人)

主演すずを昆夏美(大原櫻子)。

ほぼ出ずっぱり歌いっぱなしの役で何曲歌ったやら。セリフもあるが歌で繋いでゆく形式なので、すずさんはかなりハードな役。昆ちゃんは見た目もおっとりした性格もぼーーとしていても憎めない愛らしさも、原作から抜け出てきたような佇まい。彼女の武器はその抜群の歌唱力と豊かな表情で全てを表せること。実力という点で若手ではナンバー1の存在だと私は思っている。

彼女のナンバーは、どれも沁み入るように響いたが、私はすずの口には出せない周作の過去への嫉妬と、自分の居場所は本当は彼女(リン)の居場所だったかもしれないという複雑な思いを歌う「端っこ」が一番切なく響いた。

夫周作を海宝直人(村井良太)

寡黙で口数は少ないが、静かで強い愛情ですずを包む。自分が望んで嫁に来て貰ったが、果たしてすずも同じように思っていてくれるかどうかは不安で、どうしたら本当の家族になれるかをいつも考えている。二人きりのデートや様々な経験を通してすずと強い絆を結んでゆく。

原作の周作よりはちょっとカッコよく描かれていて、演じるのが海宝王子なのでもっと歌い上げるナンバーが欲しいところだが、抑えた役どころでも滲む優しさや男気を感じられて、惚れ惚れとする周作でした。

海宝くんのほぼ坊主に近い丸刈りや、ゲートルや丹前姿、国民服も軍服も似合って、極めつけは防空壕を掘る時の襟も裾もヨレヨレのシャツや汚れたズボンに妙に萌えてしまった。海宝くんのこんな姿を拝めるのもこの作品ならでは。(笑)

すずの幼馴染で、水兵になった水原哲を小野塚隼人(小林唯)

1幕で、子どもの頃に兄が事故死してギクシャクした家に帰りたくなくて浜辺で座り込んでいる水原を慰めるつもりで、宿題の絵を書いてあげる。浜に寄せる白い波を兎に見立てて画面いっぱいにウサギを書く。この時のナンバー「波のウサギ」もとても心に残った。

演じる小野塚くんは仮面ライダー出身の人らしくて、全くお初の役者さんだったが、映画の水原とビジュアルもよく似ていて、演技も歌もなかなか自然だったのでこれは拾い物だったかもしれない。本当は四季にいた小林くんで観たかったのだが、贅沢は言うまい。

兄の後を追って水兵になった彼は、突然すずが嫁いだ北条家に現れる。入湯上陸というらしいのだが、港に戻った水兵さんたちは交代で1泊の外泊が許されたらしい。もちろんすずも周作も驚いたが兵隊さんの頼みは断れない。

すずを呼び捨てにしてため口で話をする二人を見て、周作は内心面白くないが、敢えて納屋の二階で二人きりの時間を作らせる。水原はもちろんすずを子どもの頃から憎からず思っていて、嫁いだすずが気になり水兵の立場を利用して北条家にやってきた。明日の命もままならぬ自分だが、もしすずが不幸な境遇だったらそのまま故郷の江波へ連れて戻るつもりだったのだろう。でも周作や家族に会い、それなりに幸せそうなすずを見て、翌朝「おまえはずっと普通のままでいろ」との言葉を残し船に戻ってゆく。

白木リンを桜井玲香(平野綾)

当時の呉は東洋一の軍港であり、そこに集まる軍人達を目当ての西日本一の花街があった。リンはその花街の女、平たく言えば娼婦だ。

優しい性格で、道に迷って花街に迷い込んだすずと知り合い、道を教えてお礼にスイカの絵を書いてもらう。そうリンにとっては、そして本人は覚えていないがすずにとっても思い出のスイカだ。

玲香ちゃんはその大きな目をクルクルさせて、不幸な生い立ちと境遇に人生を諦観しつつも、今を逞しく生きている。蝶を思わせるような儚さと美しさでどこかミステリアスな雰囲気もある。

すずとリンは浅からぬ因縁を持ち、運命の糸で結ばれていた二人だが、やがてその関係が二人にとって明かになり、すずの中に重たいしこりとなってゆく。

2幕でとても印象に残るシーンがあった。呉の二河公演での花まつりのシーン。

桜の花が満開の下、大勢の花見客で賑わう坂道で周作とリンが再会する。帽子を取って深く挨拶する周作とたおやかに腰を折って頭を下げるリン。そしてすれ違い、顔をあげて前を向いて立ち去るリン。そしてそれを遠くから見つめるすず。僅か1~2分のシーンだったが、誰の気持ちを思っても切なくて涙がでた。

周作とリンは本当に愛し合っていたのだろう。でも周作の家族に反対されて泣く泣く諦めたのだろう。そしてその愛の記憶を抱きつつも二人とも前を向いて歩き出している。『醒めない夢』の中で周作は歌う「選ばなかった道は 醒めた夢と変わらない」と。

ここからは私の想像に過ぎないが、リンを早く忘れさせるために、周作の記憶の中の少女を家族ぐるみで探したのではないかと。縁談のシーンでは大人しい周作よりも同行した父親の方が積極的だった気がするし。

すずの実家の父(川口竜也)母(家塚敦子)妹すみ(小向なる)、兄(加藤潤一)祖母(白木美貴子)周作の父(中山昇)母(伽藍琳)、それからすずの幼少期と姪晴美を演じた子役たちも皆漫画から抜けでてきたようなキャラで、歌も演技も申し分ない。白木さんはレミゼ初演のエポニーヌだった。切ない少女が今やお婆ちゃん役者とは、月日はまさしく光陰矢の如しだ。

ここですずにとっては運命の日。昭和20年6月某日を書かねばならない。

怪我をして呉の病院に入院していた義父を見舞って姪の晴美と二人で歩いていた海沿いの道で、アメリカ軍が落とした時限爆弾が爆発する。晴美は吹き飛ばされ、晴美の手を握っていたすずの右腕も爆風で引きちぎられる。

気が付いた時は北条の家の中で、第1幕2景に戻る。

朦朧とした意識の中ですずは考え続ける。晴美と繋いだ手が右手ではなくて左手だったら、死んだのは晴美でなくて自分だったかもしれない。下駄をぬいて裸足で走っていれば晴美は助かったかもしれないと。

義姉径子は我が子の死に半狂乱になってすずを責める。誰のせいでもない事は皆がわかっていてもやり場のない悲しみに包まれる北条家。

義姉の径子を演じるのは音月桂。元宝塚雪組のトップスターだ。

キムちゃんは3拍子揃ったなんでも出来る子だったが、上が詰まっていて3番手2番手の時代が長かった。やっとトップが廻ってきてもあまり作品に恵まれず、実力の割に不遇なトップさんだったように思う。退団して直ぐの「十二夜」でこの日生劇場で元気な姿を観られたが、その後はご縁がなくTV等では活躍していたみたいだが舞台で観る機会が私にはなかった。なので個人的にはすごく嬉しい配役だった。

径子は意思のはっきりした娘で、当時のモガとして流行りの服と帽子で着飾り、恋愛結婚などほとんどない時代の中で、自分の結婚相手は自分で決めて嫁いだ。だが病弱だった相手に先立たれ、二人で営んでいた時計屋も区画整理で壊され、上の息子を相手の実家に取られて、娘晴美を連れて実家の北条家に戻ってきた。

すずにとっては小姑で、ぼーっとしたすずと違いなんでもテキパキとこなす径子は時折キツイ言い方もして、すずにとっては正直うっとおしい存在でもあった。

上の事件ですずと仲が良かった晴美は死に、生き残った自分は片手を失い役にも立たない。ここにいても迷惑をかけるだけだからとすずは実家に帰ろうとするが、そんなすずに径子は歌う。

『自由の色』

何もかも失ったからと同情して欲しいわけじゃない

歩いてきた人生 全て私が選んだ道だった

あの人と結ばれたこと 先立たれて離縁したこと

娘に注ぎ込んだ全て 私が選んだ道だった

これは不幸なのか 涙でかすんでも

振り返った時に見える景色は

自由の色

親に勧められたからと 嫁いできて好きに使われた

あなたの歩いてる人生 誰かが選んだ道なんだ

いつでも帰ればいい ここが嫌になれば

でもあんたの世話くらい むしろ気が紛れる

自由になれ 自由に決めて

選んだ場所が 自分の居場所

自分を あなたを 赦して見上げる空は

自由の色

これを聴いたら、抑えていたものが一気に溢れて声を上げて泣いてしまった。流石にマズイと思ってこらえようとしたが、驚いたことに周囲もすすり泣きの大合唱で、前の列の男性二人も肩を振るわせて泣いていた。

私は径子の気持ちが痛い程わかったが、まさかこれほど万人に響く歌だったとは正直びっくりした。

8月15日の玉音放送を聞いた時、大人しいすずが立ち上がり烈火の如く叫んだ。

「国民が玉砕するまで戦うんじゃなかったんかね!まだここに4人おる!まだ両足も左手も残ってるのに!!」

滂沱の涙を流しながらすずは悟る。戦争に正義などないと。戦争は暴力に過ぎず、国家間の暴力によって大切なモノを奪われたのだと。何もかもを耐えてお国の為にと振り絞って生きてきたのに、たったあれだけの言葉で全てお終いか。こんなことなら何も知らないぼーっとした娘のまま死にたかったと。

これが作者が本当に言いたかったことなのかも知れない。

原爆を扱っている作品なのに、キノコ雲の映像もなく、人の死も象徴的に描かれる。実の父母の原爆死は妹のすみの口で語られ、そのすみも引き取られた祖母の家で寝込み、腕には後の死を意味する青あざが出来る。

リンが暮らしていた花街は空爆でほぼ全焼してしまい、リンも行方不明になるが、壊れた茶碗が暗にリンの死を示しているようにも思う。

水原はどうしたか?水原が乗船していた巡洋艦青葉は歴戦の不沈艦で、レイテ沖決戦でボロボロになりながら呉へと辿り着く。辿り着いても修理する部品もなく呉の港に放置されたままだったが、20年7月の空襲で防空砲台として最後の対空戦闘を行い、アメリカ軍の爆撃により大破し船尾が切断された姿で傾いて着床する。乗組員の消息はわからない。

戦後リヤカーを引いて買い出しに行ったすずが、港に佇み傾いた青葉を見ている水原を見かけるが、声も掛けずに通り過ぎる。実像なのかすずが見た幻影なのかも劇中でははっきりしない。

「普通でいてくれ」という水原の言葉が響く。人が簡単に死んでいく世の中が普通ではないこと、そしてそれに何も感じなくなることは、人として普通ではないはずだから。

リンが歌ったように死んでしまえばその人の記憶も消える。ならばもう会えなくなってしまった人や景色は、自分が記憶の器として胸にやきつけよう。この世界の片隅から貴方たちを消してしまわぬために。

文官だった周作も兵隊として招集されたが、生きてすずの元に戻ってきた。二人で戦後処理のために出かけた広島の街で、おにぎりを与えた孤児がすずにしがみついて離れず、そのまま連れ帰ることにする。

夜半の呉の街を、遠くに光る高台にある我が家の灯を目指して、3人で歩いてゆく場面で幕が降りる。

戦争の悲劇を描いた作品なのに、観終わった後不思議に温かいもので胸が満ちる。日本人でなければ書けない脚本、美しい日本語を美しい音楽で彩り、こんなにも感動する作品を作ってくれた上田一豪さんとアンジェラ・アキさんに感謝を捧げたい。最後の呉市での千秋楽まで、どうか恙なく公演が成功しますように。

平和のありがたさ、慎ましく生きることの美しさ、様々な境遇でも精一杯生きることへのオマージュを描きながら、歌詞に何度も出てくる「居場所」探しの旅を人は続ける。

私の居場所はどこだろう。もちろん愛猫2匹と暮らすこの部屋こそ私の居場所だ。他にも職場の空間、友人達との談笑の席、居場所はきっとあちこちにある。

でも確かな居場所はもう一つある。私を待っていてくれる劇場の椅子だ。

僅か50㎝四方の小さな場所が私のスペシャルな場所。いつも辿り着くと神様に感謝する場所。全く化粧っ気のないツルツル肌の少女の私がそこにいて、半世紀経ってもはや化粧をしても隠しようのない皺だらけの私が、同じようにキラキラの熱い視線を舞台に向けている。スポットライトが当たるのは舞台の上の役者さんだが、私のなかで光り輝くのはこの小さな空間なのだ。

半世紀前の少女の私に言いたい。大丈夫、貴女はこの先もずっとこの居場所にいられる。本当に色々ある人生だったけど、貴女はいつもこの場所に帰ってきた。ここに貴女の居場所があると。

I love theater

I love musical

永遠に、愛を。