観劇日記 3
【 ノートルダムの鐘 】
色々と忙しくてつい後回しになったレポ書きは、まず観劇時のあの空間に居た事を体に蘇えらせる、という作業から始めなければならない。
これがなかなかに時間がかかり、若い頃のように簡単にワープ出来なくなっているのが何とももどかしい。ただこれが成功すれば、感情はスラスラと文字になってくれるようなのだ、私の場合。(失敗すれば敢えて書かない。笑)
またもやどうでもよい前置きで申し訳ありません。いつものようにネタバレが泉の如く溢れると思いますのでご注意下さいませませ。(さだまさし世代w)
2017年頃にそれほど時間を置かずに2回観て、その後ずっとご無沙汰をしていた作品なのだが、どこかのタイミングで東京公演のフライヤーを目にしてまた観たくなり、何とか押さえたチケットだった。
時を経ていて色々忘れているとはいえ既にストーリーを知っているので、席についてあの荘厳なクワイアの歌声(ラテン語)が劇場に響き渡るだけで涙が滲んだ。そう、いきなりズボッっと淵に沈んだ感じw
物語はもう皆さんよくご存じでしょうから敢えて詳しくは書きませんが、190年前に書かれたヴィクトル・ユゴーの小説「ノートルダム・ド・パリ」が、こんなにもドラマチックで濃厚なミュージカルとなり、現代に生きている名もなき私達に深い感動を与えてくれたこと、感謝せずにはいられません。
ユゴーがこの物語に織り込んだメッセージ、託された願いは、おそらくはたくさんの人々の心に届いたことでしょう。
ディズニーと劇団四季と優秀なスタッフ、特にこんなにも胸を打つ優れた楽曲を書いたアラン・メンケンさんに最大級の賛辞を贈りたいです。
もちろん、レベルの高い四季の役者さん達の奮闘にも。
「人間とは何か」
人間が持つ原罪とも言える光と闇、神と権力、自制と欲望、愛と献身。
およそ人間が有するあらゆる面をこれ以上ないくらいコントラスト強くシビアに描いている作品で、それが得も言われぬ複雑な感情を呼び起こし、観客を感動の渦に浸す。
冒頭と終盤で歌われる「人間と怪物、どこに違いがあるのだろう」の歌詞が、この物語を貫く核となっている。
冒頭のクワイアが終わると数人が舞台上で語り部のように歌い継ぎ、一人の涼やかな顔をした青年が、背中にこぶの種を背負いボロを着て顔を墨で汚し一周りターンをすると、顔が歪み腰も曲がった醜い異形の者となる。
彼がこの物語の主人公カジモドである。
話は遡るが、この大聖堂に引き取られた孤児の兄弟がいた。兄は真面目にキリスト教の教えを学びやがて出世の階段を上ってゆくが、遊び好きで自由を求める弟はやがて破門されジプシーの女と何処へと姿を消した。
その弟から連絡が入り、駆け付けた兄に弟は生まれたばかりの赤ん坊を託して病で息絶える。母はすでに死亡している。
兄はその赤ん坊のおぞましい醜さを見て思わず川に投げ捨てようとするが、弟への愛ゆえか思いとどまり、ノートルダムの最上階の鐘楼で密かに育てることにする。
やがて赤ん坊は成長し、時を告げる大きな鐘を打ち鳴らす事を仕事として、壁のガーゴイル(石像)達だけを話し相手の孤独な青年となる。
見下ろすパリの街に暮らす普通の人々を羨み、たとえ一日でもいいから街の中で暮らしてみたい。石の壁に隠れて怯えて生きるより、僕も行きたい、あの陽ざしの中へ。
1月6日は年に一度の道化のまつり「トプシー・ターヴィー」の日。この日だけは謂わば無礼講の日で、どんな人でも街に出て日頃は禁止されている歌や踊りも自由に出来る日。虐げられていたジプシーたちも例外ではない。
カジモドは勇気を振り絞って塔を降り、街に飛び出して行く。
街の一角の小さな舞台で、一人の美しいジプシーの踊り子が華やかに踊り始める。彼女の名前はエスメラルダ。その美しさに心を奪われるカジモドと美形の警備隊長フィーバス。そしてもう一人、カジモドの主人であり彼の伯父でもある大聖堂の大助祭クロード・フロロー。
この4角関係が、運命の物語を紡ぐ糸車をカラコロと回し、悲劇の階段を駆け下りてゆく。
役者さんたちの感想。
まずはカジモド、山下泰明くん。
割と小柄でこざっぱりとした印象。顔は星野源にちょっと似ている。音大出身らしく歌はとても丁寧で特に高音が綺麗。
ノートルダム大聖堂の大助祭フロロー、野中万寿夫さん。
初回と今回で2度目。優しい外観に似合わず割と悪役専科。w
今回はもう際だった悪で吐き気をもよおす程のゲス。真面目で勉学に熱心な男が権力を持つほどに尊大になり、エスメラルダに魅入られてからは、抑えていた欲情がまさに地獄の炎のように燃え上がる。自分のものにならないならば、殺してしまえホトトギスの信長タイプ。
全ての悲劇の元はその邪恋の炎にあり、エスメラルダだけでなくフィーバスやカジモドの命をも脅かすこととなる。
野中さんは初見のときよりもいやらしさ増し増し。普通の男がモンスターになってゆく過程が納得できる役作り。
大聖堂の警備隊長のフィーバス。演じるは加藤迪(ススム)くん。
加藤くんは「パリのアメリカ人」以来で、どっちかというとヒールが似合うんじゃないかと思っていたけれど、ラウルもやってたらしいし、なかなかの2枚目振りだった。特に芝居が上手で、4年間も戦場にいて戦いに膿んでいた時に命令とはいえ部下をおいて自分だけがパリに戻ってきた後ろめたさや、どこか人生を諦観している風情がある種の魅力に繋がり、フィーバスという人間像の輪郭をより際だたせた。
職務に忠実にフロローの命令に従っていたが、ジプシーの拠点を焼きはらう命令を直前で裏切り、エスメラルダを救い出し自らもジプシーたちと共に生きる事を選択する。が、結局は捕えられてしまう。元部下の情けでエスメラルダと過ごす牢獄での最後の夜のシーンは、もう私はボロ泣きで演技云々の話ではない。
この二人の純愛が一つのテーマでもあるのだけれど、エスメラルダがどの時点でフィーバスと恋に落ちるのかが3回観てもはっきりしない。私が鈍感なだけかもしれないので、どなたか教えて欲しい。フロローの攻撃から助けてくれた時?それともそれ以前?
最後にエスメラルダの松山育恵さん。
プリンシパルとしてはお初の人。初回が岡村美南さんで2回目が宮田愛さんだった。ダンスはキレッキレで歌もいい。場面が進むうちにちゃんと魅力的なエスメラルダに見えてきたのは役者さんの力。
見る角度によってはちょっとみりおちゃん(明日海りお)に似ている感じ。
飛び出したカジモドによって火刑の炎の中から救い出されたエスメラルダだったが、時既に遅く微かな息の中で歌う
ここに戻れたのね
なんて美しい朝なの
あなたも美しいわ
世界の頂上で
彼女にとっても、カジモドと世界の頂上で理解しあえたこのノートルダムこそがサンクチュアリ―(聖域)だったのだ。
私はこの舞台を観るまではちょっと誤解をしていた。ジプシーというのは国に縛られないある種の自由な人々で、旅から旅へと放浪しながら歌舞や行商を生業として暮らしている人々だと思っていた。
だが事実はそうではない。国に縛られないのではなく受け入れてくれる国を持たない故の放浪なのだ。ヨーロッパにおけるジプシーは明らかな被差別民で常に迫害を受けていた民族なのだ。
そしてこの誤解は
♪自由に生きたい~ジプシーのように♪
と歌うエリザベートのせいである。(笑)
カジモドを追って迷い込んだノートルダムで、その荘厳な美しさに感動してエスメラルダは祈る。
どうか助けて 飢える者を
どうかお慈悲を 哀れな者に
わたしなら大丈夫
でも不幸な人はたくさんいる
どうか助けて 仲間たちを
人は誰でも神の子
処刑の前夜、しつこく自分のものになれというフロローの要求を毅然と断り、彼女はフィーバスと共に歌う。
いつか 人はみんな賢くなる時が来る
祈るわ 争いの炎が消えることを
いつか 夢は叶う
祈ろう 世界は変わると
どんな時でも彼女は自分以外の人々のために祈る。
彼女には真実が、本当の美しさが見えていた。
神の一番近くにいるべき者が実は一番遠く、神の祝福から外れたような者たちが、実は一番神に近かったのだ。
終幕、涼やかな青年に戻ったカジモドがその後の顛末を静かに語り、その他の出演者達全員が顔に墨を塗って現れる。
人間と怪物、どこに違いがあるのだろう。
このテーマの答えがここにある。
ノートル・ダムは英語だとOur Lady、日本語だと「我々の淑女」で聖母マリアを示しているのだそう。
12世紀後半に建築されたゴシック建築の傑作だったけれども、ルネッサンス期にはゴシックは野蛮とされ一部が壊されたりして人々から忘れられて衰退する。
だがユゴーのこの小説が大評判を呼び、1845に建築家ヴィオレル・デュクによる修復工事が開始され、大聖堂は中世の姿を取り戻す。
その時にデュクは中世には存在しなかったものを新たに加えた。塔の上からパリの街を見下ろす怪物たちの石像がそれ。カジモドへのオマージュと言われている。
セーヌの湖畔に立つこの大聖堂は、1345年に完成して600年以上に渡りパリの街を見守り続けた。フランス革命もナポレオンの凱旋も二つの世界大戦も乗り越えて、今も彼女は我々人間の小さな営みを見守り続ける。
不幸にして2019年に火事で半分以上が焼け落ちてしまったが、綿密な修復工事が行われていて2025年には全て元通りになる予定らしい。
2024年にはパリオリンピックが行われて、このセーヌ湖畔で船に乗って開会式が行われる予定と聞く。
カジモドとエスメラルダはもちろん架空の人物だが、風に乗って消えた彼らの魂が、塔の上の世界の頂上で仲良くオリンピックを見物してくれるといいなぁ。
「ノートルダム・ド・パリ」
口にするだけで、甘美で哀しい余韻が響く。
人類の罪と赦しを背負って立ち続ける、彼女に栄光あれ。