⭐️観劇日記10⭐️

【 レッドブック 】

「大丈夫、私には、私がいるわ」

舞台も配信も観ての感想。観劇当日は少々疲れていたせいもあって、1幕の所々に記憶が飛んでしまった部分があり、配信で穴を埋める作業が出来て、まことにありがたかった。

例によってネタバレ満載なのでご注意くださいませ。

舞台は、19世紀の保守的な価値観の色濃いヴィクトリア王朝時代のロンドン。イギリス帝国の絶頂期にあたり、当時のロンドンは謂わば世界の中心都市。

その世界の中心で愛を叫んだ二人の物語。…いや、冗談です、ごめんなさい。(あちゃ)

「紳士・淑女たれ」が最高の美徳とされた社会で、主人公アンナ(咲妃みゆ)はちょっと風変わりで、淑女になることよりも「私であること」を望む、当時としては規格外れの女性。

当然、社会は受け入れてくれず、職も見つからず、思うような居場所がみつからない。

そんな彼女の前に現れたのは、愛も恋も本でしか知らない真面目な新米弁護士ブラウン(小関裕太)。紳士であることに誇りを持ち、友人の双子のジャック(中桐聖弥)とアンディ(加藤大悟)とつるんで「紳士三銃士」を名乗り独自の正義を貫いているが、ひょんなことからアンナと出会い、タイピストとして彼女を雇うことになる。

一方アンナは、女性文学界『ローレライの丘』の創始者ローレライと、その会長のドロシーとの出会いをきっかけに、自身の中で眠っていた「書きたい」という衝動をかたちにして小説を書き上げる。その本「レッドブック」は大変刺激的で官能的で、瞬く間に世間の評判になる。

ところが、有名評論家として接近してきた色狂いのジョンソン(エハラマサヒロ)を足蹴にして反感を買い、遂にはレッドブックの内容が女性としての慎みに欠け社会に悪い影響を与えるとの理由で逮捕され、裁判にかけられる事に。

その時、アンナは、そしてブラウンの取った行動は。。

本作は2018年韓国で初演され、かの国の数々のアワードに輝いた作品。韓国ミュージカルというと、豪華な装置で派手な演出、圧倒的な歌唱力で力業、という印象があるのだが、近年はこういった、派手ではないが心の機微を丁寧に描いて感動を呼び起こす佳作が多いらしい。昨年のトニー賞に輝いた「メイビーハッピーエンディング」もそうらしいし。(観てはいない)

本作を簡単に言うと、ちょっと風変わりで自分に正直な女性アンナが、小説を書くことによって自己表現をすることを見出し、社会の偏見と向き合いながら「私」として生きる道を見つけ出してゆく成長物語。

そして、はじめはそんなアンナに反感しか持たなかった紳士たるブラウンが、彼女の真摯な生き方に触れ、常識の枠を超えた次元で彼女を理解し愛し、共に手を携えて裁判を勝ち取り愛を成就させる物語でもある。

なぜ彼女が常識やぶりなのかは、現代に生きる私たちにはなかなか理解しがたい。

時は19世紀のイギリス、女性は結婚して家庭に入り家族のために尽くすのが当たり前で、外に出て働くのは下層階級の人々が工場や裕福な家のメイドになるくらいだった。

因みに女性に選挙権はまだなく、政治の世界に参加することは全くなかった。それどころか、結婚すると妻の財産は全て夫の管理下になり、離婚は非常に難しく、女性にとってはまったくもって不平等な法律で縛られていた。

当時のロンドンでもそうなんだ~と驚いたが、その頃の日本は江戸時代で封建社会の真っただ中。たとえ大名の家に生まれても人質のような政略結婚で会ったこともない人に嫁がなきゃいけない場合が多く、女性の権利は露ほどもなかった。(庶民は自由恋愛をしていたかもだが)

女性が本を書くこと自体が嘲笑の的になる世の中で、アンナはふとしたことで『ローレライの丘』という出版物に出会い、すべて女性の手で創作がされていることを知り嬉々として門をたたく。

そこで出会う女性たち、とくに創始者ローレライ(田代万里生)と会長ドロシー(花乃まりあ)に励まされて小説を書こうと思いつく。そして彼女の小説が載った「レッドブック」はその官能的な内容でたちまちに評判になり、本は爆発的に売れてゆく。

そんな時、有名な評論家のジョンソンが近づいてきて講評を書いてくれるという。ところがこれがとんでもないスケベ親父で…

それから後は前述した通り。

ちょっと横道に逸れるが、19世紀のイギリスでは男性の小説家は、チャールズ・ディケンズ、コナン・ドイル、オスカーワイルド、他にも有名どころがワンサカいるのに、確かに女性作家は少ない。

アンナと同時代に生きた女性作家といえば、(むろんアンナは実在していないが)有名なブロンテ姉妹がいる。

「ジェーン・エア」も「嵐が丘」もあまり官能的な表現はなかったように思うが、社会通念に反した作品として、若くして亡くなった彼女たちが賞賛されることはなかった。その作品が正当な評価を受けるのは20世紀に入ってからだ。

言葉はそのまま文化になる。彼女たちが声を上げたからこそ、20世紀に始まる男女平等の世界が広がっていったのだと思う。

舞台の話に移ろう。

衣装や小道具、町の様子は当時の様子を彷彿とさせるものだが、舞台装置的には簡便なものが多く、2階建てのブリッジ用の大きなものと、後は机と椅子とか屋台の店とか必要最低限を上手に使い回している印象。

音楽は耳なじみが良くグルーヴ感があるメロディライン。アンナが歌う1幕ラストの「罪な女」と2幕終盤の「私は私を語る人」が耳に残った。特に1幕ラストはちょっとウトっとしていたところを平手打ちされたような感覚だった。ゆうみちゃん(咲妃みゆ)のよく響く力強い歌声は、なぜか「ベートーヴェン」での、嵐の中での芳雄くんの音響に負けない絶唱を思い出した。関係ないのにね。

ブラウンの小関くん。配信とかで3回くらい観たことはあるが、生の舞台は今回が初めまして。

まずプロポーションが良くてスーツ姿がぴったり決まって、髪型も含めて立っているだけで品のあるイギリス紳士。歌はそれほど上手ではないけど(失礼)芝居の完成度は抜群に良くて、アンナほど出ずっぱりではないが感情の流れが途切れず、役の変化が観客に違和感なく伝わってくる。

常識外れのアンナに手こずり、反感を感じて喧嘩もするけれど、次第に彼女に魅かれてゆく過程を過不足なく的確に、より繊細に演じている。

彼女をもっと深く知りたくて女装して「ローレライの丘」に潜入し、もどかしい自分の想いをドロシー達にぶちあける所など、初めての恋に翻弄される純朴な青年ぶりがとても微笑ましい。

愛を打ち明けるシーンは、涙を溜めて鼻先を真っ赤にしての告白で、客席のイイトシのおばちゃんも、もう胸がキュンキュン、キュルルー。(最後は腹の音)

こんな美しいラブシーンは滅多に観たことがなく、二人とも最早演技ではない。(いや演技だけど)私が観たのは東京公演の前楽だったので、余計に感情が乗っていたのかもしれない。

とにかく私は小関裕太という俳優を大変気に入ってしまった。推しの一人としてこれからも応援していこうと思う。

主役アンナの咲妃みゆ。もう立派としか言いようがない。宝塚時代からその実力は広く知られていて、若くしての抜擢に応えて雪組トップ娘役として不動の人気を誇っていた。

ちぎちゃん(早霧せいな)との並びも美しく、花も実もあるコンビで人気もあった。退団してからも仕事が絶えず、最近は個性的な役も難なくこなして万能選手として引っ張りだこだ。

楚々とした外見だが、いや、それだからこそ、この風変わりで気丈なアンナが嫌味にならずぴったりと嵌った。歌もダンスも芝居も文句のつけようがない。

もう一人宝塚出身でドロシー役、花乃まりあ。ゆうみちゃんより遅咲きの花だったけれど、いや~もう本当にお上手。その吹っ切れた演技が元ヅカの娘役とは思えないキレの良さ。

同期のトップ娘役二人による「カマキリの交尾のダンス」はもう絶品!スミレコードをぶっ飛ばすこのシーンだけでも、この作品を観る価値があるかも。(んな訳ないか)

それにしても、昨今の元ヅカの娘役の活躍は本当に素晴らしい。ビジュアルだけでなく歌もダンスも芝居も一級品だ。宝塚という組織の存在が日本のエンタメ界にどれほどの貢献をしているか、あらためてしみじみと思い知らされる今日この頃だ。

その他の役として、ブラウンの友人の双子のジャック(中桐聖弥)とアンディ(加藤大悟)。あまり似てない双子だが、中桐くんの方がやはり安定感があるかな。加藤君はイケメンだし、これからの期待の星くらいにしておこう。

悪役ジョンソンのエハラマサヒロ。名前は聞いたことあったけれど、物まね上手のお笑いタレントさんなのね。だからか極悪人だけど、どこか憎めない役作り。文字通り(股間を)足蹴にされるんだけれど、まぁ痛そうでお気の毒。あそこに包帯を巻いたりして、韓国ものって日本より表現が直接的で笑えた。

さてイチ推しのローレライ、田代万里生。

悪くはないの、よくやっていると思う。女装もなかなか様になっているし。でもなんていうかこの役の必然性がイマイチ伝わってこない。嘗て愛した人の名を名乗り、殺されてしまった彼女が望んだことを、彼女に成り代わって設立した。だから「女であること」が大切だった、という理由はわかった。

でもそうまでして彼女の意思を継ぐ、愛情とか決意とか信念とかがあまり感じられない。

演出の問題もあるだろうけど、もうちょっと何とかならなかったのかな。

万里生っちの変化球が多彩なのは、彼の努力の成果だとは思うのだけど、私はそろそろ彼の直球ど真ん中が観たい。そういう意味でもアニオー姫には期待している。

総じて予定調和的な結末ではあったけれど、決して明るいばかりではないこの作品を観た後の一抹のそよ風のような清涼感は、脚本・演出を手掛けた小林香が意図した世界であろうし、それに応えて出演者達のきめ細やかな演技が、この作品をミューとしてだけでなく、お芝居としても観客の心を浄化してくれたのだろうと思う。(もちろん韓国版あってのことだが)

題材的には結構重たいものを含んでいるが、シリアスとコメディのバランスもよく丁寧にお芝居を創り上げていて、主題がストレートに伝わった。しかも私の個人的な琴線にも響く内容だった。

人が生きていくうえで最も大切なことは、自分を護ることと、他者への理解と尊重。

変わり者とかの後ろ指を指されても、めげずに生きて、小説を書くことで自己表現を手に入れてゆくアンナに、そこはかのシンパシーを感じる私がいる。

もちろん、私は平々凡々な人間で作家としての才能がある訳でもない。だが、こういった文章を書くことは好きで、これも一つの自己表現だと思っている。

アンナのようにはっきりとした信念がある訳ではないが、人生の分岐点を常識にとらわれず「こっち」と決めて歩いていたら現時点に立っている感じ。望んだ世界かどうかはよくわからないのだが、夫も子供もなく一人で気ままに生きている私は、明らかに世間から見れば「普通」ではない。しかも老いてきたこの頃は「さびしいでしょう」と同情されるのがオチで、迷惑千万な話だ。

だが全く否定も出来ない。さびしい時、悩んだ時、絶望に浸された時、私の脳内にはいつも「ラ・カージュ」の『I am what I am』が響く。もちろんいっちゃん(市村正親)の声でね。

そう、私は私。どんなにちっぽけな存在でも私は私なのだ。

で、このレポの冒頭のアンナの台詞が、光のように心を射した。

そうよ、私には私がいるじゃない。アンナのように心から愛しあえるブラウンは見つけられなかったけれど、ただの泣き虫弱虫の少女が、ウン十年かけて自我を育てて今日まで生きてきた。それで十分。

残念ながらアンナのように官能的な夢も見られないので、書ける内容も色気がないけれど、私は私を語る人でいたい。

そう、これからも書き綴ろう、私だけのレッドブックを。