⭐️観劇日記11⭐️

【 もののけ姫 】

 

「もののけより人間の方が怖ろしいかもしれん」<エボシ御前>

久しぶりの配信日記、しかもミュージカルでもない。でも私の中では歌舞伎とミュージカルはそう遠くもない存在だとあらためて感じたので、ここにて感想を書き候。(ぷっ)

最初に述べておきたいことは、これまでのエンタメ鑑賞歴に歌舞伎はほぼご縁がなく、よって蘊蓄を述べるほどの知識はさらさらなく、若葉マークを掲げての鑑賞であったこと。

しかも私はどうにもアニメというものが苦手で(漫画は好きだが)、あの現実離れしたスーパーエキセントリックな映像にどうしても違和感しか感じない特異体質なのだ。

その昔、アニメの「君の名は」が大ヒットしていたのでワクワクして映画館に行ったが、出てきたときはただ目と頭が疲れただけだった。そう言えばあの時にチケットの買い方もわからない年配のご夫婦がいて、代わりに買ってあげたのだが、お礼の言葉と一緒に「この頃は映画も観なくなってね、でもこれは懐かしいからねぇ。」と仰ったのだ。

明らかに、古き良き時代のあのお風呂屋さんが空になったという伝説のNHKドラマと勘違いしていた様子だが、もう今更訂正も出来ずひきつった笑顔で見送るしかなかった。あのご夫婦はあの時にどんな感想を持ったんだろうか。。

なので、それ以来私はアニメ映画というものを観ていない。ジブリも最初のナウシカしか観ていなくて、あれはとても深いテーマがある素晴らしい作品だったが、やはりエグイ場面もあって観ていてウゲっとなったりもした。 

そしてここで一番のネックは、私が無類の動物好きということだ。(ただし足は4本に限る)

もののけ姫もとても評判が良かったので観てみたいとは思ったのだが、あらすじを読むと、なにやら動物たちが酷い目に逢いそうだったのでやめた。やめて正解だった。

モロがエボシに撃たれたり、ヤックルが矢で射られたり、いのしし達のジェノサイドなんか見せられたら、映画館で私がタタリ神になってしまいそう。

そんな訳で、映画も観ずジブリにも親しくなくまっさらな状態での観劇だったので、見当違いの内容になるかもしれません。映画ファンやジブリファンの皆様にはご不満もあるかもしれませんが、どうぞ平にご容赦を~。

長い前置きでした。(長すぎるわい)

あらすじは書かずとも皆々様の方がよくご存じだと思われる。舞台は昔々の北方の地(岩手or青森?)にある蝦夷の部落から始まる。少年アシタカが村を襲った猪のタタリ神を射抜いたことで呪いをその腕に受け、やがては命を奪われるであろうその呪いを解くために、村を出て(追い出されて)遥かな西の国へと赴く。(島根?) 

一族の長老の台詞に「ヤマトに滅ぼされてから500年」というのがあって、蝦夷の阿弖流為が大和朝廷に敗れたのが西暦801年なので、それから500年ということは西暦1300年辺りの物語だろうか。それだと鎌倉時代になるのだが、エボシ御前の台詞に「明国の鉄砲は重くて使いにくい」との台詞があったので、そうなるともう少し後の室町時代かもしれない。いずれにしろ人間は、自然の神羅万象に神を感じ、呪いや祟りも日常に溶け込んでいた頃の物語だ。

アシタカが旅の途中で知り合ったジコ坊なる人物に教えてもらったその遥かな土地、シシ神の森にたどり着いた時に、一人の少女と出会う。少女が母と呼ぶ大きな白い山犬は、人間のエボシ御前の石火矢に撃たれ出血していて、その少女サンが口で母犬モロの傷から毒を吸い出していた。

もう一人、たまたまアシタカが通りかかった崖下で助けた者を送って行った場所が、森を切り開いて作ったタタラ場(製鉄所)で、そこの首領が前述したエボシ御前だ。

彼女の人生に何があったかは知らないが、どうやら弱い者や病気の者が差別されずに生きがいを持って暮らせる、そんな理想郷を作りたいらしい。

川の砂鉄と森の木炭から鉄を精製して、それを売って経済を回し、石火矢(鉄砲)を作り外敵に備えた。砂鉄を追いかけだんだん山の奥へと入り込み、山の獣や神々と対立する。

シシ神が支配する深い森は、それまで何者の侵略も許さず、すべての動物たちと古い神々と調和を保って悠久の時を生きてきた。

そこを破壊しタタラ場を開いて動物たちを追いやった。邪魔な彼らを遠慮なく撃ち殺し、300年も森を守ってきたサンの母犬モロも打たれて瀕死の重傷を負う。

イノシシのナゴの神は撃たれた傷に苦しみ、死への恐怖と人間への憎しみでタタリ神となり、この物語のプロローグになったアシタカの村を襲う。なぜ中国地方から東北地方に飛んで祟ったのかは不明だが。ま、そこは物語だから。w

つまり、共に強烈な個性を持つ二人の女性がこの物語の核になっている。

エボシは虐げられた人間たちには慈愛の神のごとき存在だが、森や自然に対しては容赦ない仕打ちをして、権力や因習に振り回されない独自の理想郷を作りたい人間であり、一方のサンは人間でありながら捨てられて、それを哀れんだ山犬に育てられ、森を破壊する侵略者としての人間を激しく憎んでいる。

それぞれの正義はまったく両極端で相入れないもので、その戦いのさなかにアシタカ少年の運命が巻き込まれてゆく。

物語の内容はここまでにして、舞台の感想を述べよう。

この壮大な抒情詩のような作品を、舞台に乗せるのは大変な苦労があったと思われる。しかも歌舞伎とのコラボだ。簡単なはずもない。

でも、これが素晴らしく完成度の高い舞台になっていて嬉しい驚きだった。

まず、歌舞伎は様式美の世界で、盛り上がる場面では役者が2回3回と見得を切る。これがこのドラマチックでスペクタクルな内容にぴったりと嵌って実にカッコイイ。歌舞伎鑑賞の作法とか慣習とかは全く知らないのだが、この見得を切るタイミングで思わず拍手をしてしまう。これはもう日本人の血のせいかもしれない。w

そしてこれはスーパー歌舞伎の特徴らしいのだが、台詞が現代語に近く役者の滑舌も良いので、台詞は固有名詞を除けば容易に理解できる。イヤホンガイドはいらない。(笑)

役者は全部で60人以上いるそうだが、ダンスも、いや舞踊も芝居も上手なプロばかりで、どの場面も見応えがある。モロの息子の双子の犬(サンの兄弟)など、軽業師のようにアクロバティックで、走り方がいかにも犬らしくて、四つ足好きの私のツボにハマった。w

衣装も豪華で、特に森の神々たち、シシ神や犬神モロやイノシシの神乙事主(オッコトヌシ)の衣装もウィッグも豪華絢爛でまばゆいばかりだ。

特にモロの真っ白なドレスのような衣装と毛足の長いウィッグがとっても綺麗だった。前述した息子二匹も真っ白でモコモコしていて超絶可愛い♡

シシ神はまるで金色の獅子、重たそうな衣装を着て宙乗りで客席の上を飛んで行く。

映画と同じ久石譲の音楽はこの作品によく馴染み、演出の横内健介はまさにグッドジョブ。

音響、衣装、照明、振付や殺陣、みな文句なしに素晴らしい。特に感心したのは、美術とか特殊効果の分野だ。これだけのスペクタクルならさぞやデジタルな技術を駆使するのかと思いきや、これが意外とアナログだった。

CGとかPMとかは一切使わずあれだけの臨場感あふれる舞台効果を出せるのはあっぱれと言うしかない。特に最後の大詰めで、エボシに頭を飛ばされたシシ神がディダラボッチになって自分の首を取り返しに来るのだが、巨大な6本指の手が舞台奥からせり出して来る時はてっきりCGかな?と思ったのだが、なんと黒子さんが左右それぞれ二人で指先と手首を棒で支えて操っているのだ。照明や音楽やスモークの効果で、なんとも迫力のある場面になっていてほんとに恐ろしかった。裏方さんたちもグッジョブです。

アナログの極みと謂えるのがアシタカが乗るヤックルで、馬のような体躯に鹿のような長い角が生えている。つまり馬鹿である。いやバカと読まずにウマシカと読んで欲しい。w

現実にはいそうもない動物だが、それは全く問題にはならない。犬やイノシシが人間語を話す世界だ、ウマシカがいてもなんら不思議ではない。w

このヤックル、前足と後ろ足に人が二人入っている昔からお馴染みの形だが、超優秀なウマシカだった。決して軽くはないアシタカを背に乗せて、あの狭い花道をパッカパッカと走り、悲しさや嬉しさ心配している様子まで感情がわかるのだ、いやそれだけではない、アシタカと一緒に見得まで切った。私にとっては今回一番愛すべきキャラだった。

中のお二人、まさにプロのお仕事でした。あっぱれでございます。

もうかなり長い文章になってしまっているが、もう少しお付き合いを。

では出演者を簡単に。

タイトルロールのサンは中村壱太郎(敬称略)

「そなたは美しい」というアシタカの台詞があってう~んと思ったのだが(失礼)歩き方話し方身のこなし等でちゃんと15歳の少女に見える。中の人は36歳とのことだが、歌舞伎のあの白塗りは年齢も性別も超えられるアイテムなのね。いや何よりも芸の力だが。

母モロや森の仲間たちへの愛情と人間への激しい憎しみ、アシタカと心通わせてゆく過程がとっても納得出来る役作りだった。

エボシ御前は中村時蔵。 

芯があって凛とした美しく強いリーダー。圧倒的なカリスマ性があり、何も言わずに花道を歩くだけでそのオーラにクラっとくる。まるで宝塚のトップスターのような輝きだ。w

タタラ場の人々が崇拝し付いて行きたくなる気持ちが良くわかる。

物語的にはヒールになるのだろうが、善悪はあざなえる縄の如しというこの物語の一つのテーマを象徴している存在になっている。サンとの一騎打ちのシーンもあって、女形同士で武器を持って戦うのは歌舞伎の歴史にもないことらしく、大変迫力のある戦闘シーンになった。女形でも素は男だものね。w

サンの母で犬神モロは市川笑三郎。 

お名前も存じ上げず申し訳ないが、相当名のある役者さんなのだろう、存在感が半端ない。森を守る神であり、サンの優しい母でもある。エボシに撃たれた傷で瀕死の状態なのに最後の力を振り絞ってエボシの右腕を嚙みちぎる。その執念に心打たれた。

サンのためにも生きていて欲しかった。

オッコトヌシの市川中車。

香川照之として芸能界では知らない人はいない俳優だが、とある不祥事でTVやスクリーンからは消えてしまった。でも御大市川猿翁の直系ということで、父亡きあと澤瀉屋を引き継ぐ立場になったのだろう。たぶん自分がというより、息子の團子くんが祖父の跡を引き継げるように敢えての挑戦だったのかも。

40代半ばからの入門は茨の道だったと思うが、その死に物狂いの稽古が実を結んで、立派な歌舞伎役者になった(ように思う)。あの重そうな衣装に負けずによく踊るし、上体を揺らしながら見得を切るのは、よほど下半身が安定していないと出来ないだろう。

終盤に人間との戦いで盲目となり、全滅した仲間の臭いで狂ってゆく過程が素晴らしかった。

帰る場所があって本当に良かったね。

最後に主演アシタカを演じた市川團子。

その出来栄えにはもはや言葉もない。完璧。記者会見も見たが、若くて爽やか系イケメンで謙虚で誠実そう。受け答えもクレバーだし、なにより品が良い。歌舞伎役者としての資質は全部揃っている。まだ22歳とのことで、どこまで伸びるか今後が楽しみな役者さん。演じるアシタカも素直で誠実で困難にあっても常に前を向き続け、常に他者の痛みに敏感な少年だ。(設定は17歳とのこと)

サンは赤子の頃、モロを恐れた村人から差し出された生贄だった。モロはそれを哀れみ、喰らうどころか自分の娘として育てた。サンを庇うアシタカにモロは三度問う。「お前にサンが救えるか」アシタカは答える「わからぬ、ただ共に生きることは出来る」

この共に生きる『共生』が、この物語全編を覆う大きなテーマになっている。

恨みやら憎しみやら欲望やらにまみれた周囲の生き物たちのただ中で、アシタカは「森とタタラ場は共に生きることはできぬのか?」「人間と自然は共に生きることはできぬのか?」とその名の通りより良きアシタのために身を挺して奮闘する。

そして。。

結末は皆様のご存じの通りです。ご存じない方がいらっしゃったらコメント下さい、説明します。(笑)

「天地(あまつち)の間にあるもの全てを欲しがるのが人間の欲望よ」というジコ坊(市川猿弥)の台詞があるのだが、そんな人間ばかりとは思いたくないが、現実問題その欲にかられた人間どもによって今もこの世界は大いに乱れている。

欲があったからこそ人類は発展してきた一面もあるので、必ずしも悪とはいえないにしろ、如何せん強欲過ぎないか?

人間こそがこの地球にとってはエイリアンで、生命の調和を乱し自らの首を絞めているのではないか?と常日頃から思っている。

「…だが我もまた人類の一部なれば されば問うなかれ 誰がために鐘は鳴るやと そは汝がために鳴るなれば」(ジョン・ダン)

すみません、つい教養が。(ぷっ)

私もまた人類の一人として罪は同じ。人間の業を見据えて尚、いかに生きるかを問われている作品だった。

話は少し逸れるが、アイヌの人々は我々と死生観がだいぶん違うという話を何かで読んだ。彼らにとって死は別の空間への移動であって、そっちで死んだらまたこっちで生まれ変わるという輪廻転生を信じているとのこと。言い換えれば再生と循環を繰り返すということか。まさに不滅の魂だ。だから彼らは死を恐れない。死を恐れないから生に執着しない。だから現世の欲にも執着せず、他者の命をも奪わない、なので憎しみの連鎖も起こらない。

もしアイヌの民が蝦夷の末裔なら、アシタカの真っすぐな生き方と欲の無さはその民族の血の証ではないのか。

終末、アシタカがサンに言った台詞。「シシ神さまは死にはしないよ。生と死と両方をもっているもの」というなんだか不思議に感じた台詞も、それなら腑に落ちる。

生と死は一体であり、それを司るより大きな存在があるということか。

そう考えると、もはや宗教だわ。

神様、私はシシ神でも犬神でもなく「猫神」に生まれ変わりたいです!(アホ)

 またまた長くなりました。最後までお付き合い下さいましてありがとうございます。

ミュージカル一筋の観劇人生でしたが、歌舞伎も選択肢に入ってきそうな予感がします。

あぁ、切実に財力と体力が欲しい。

最後に、タタリ神になったオッコトヌシの怨念に飲み込まれていく瞬間のアシタカの顔がツボにハマって、何度も配信をプレイバックして見ていたことを告白して終わりにします。

オーラスのアシタカの台詞。

「会いにいくよ、ヤックルに乗って!」

 

はい!お待ち申しております。(笑)